日々是好日

死ぬまでハッピー!

頑張る推しの話

 

 頑張る、って難しい。

 頑張らなくちゃって思っても、どうしても手を抜きたくなってしまう瞬間があるし、なんでこんなに気を張って努力しなくちゃいけないんだろうって投げ出したくなってしまう。

 それでも頑張って、頑張って、頑張って、結果が出ないこともある。他人に馬鹿にされることもある。自分から見たら頑張ってないと思えるようなひとが、ひょいっと美味しいところを持っていくことも、ある。

 頑張ることは難しいし、頑張ろうって自分を奮い立たせることもわりと大変だ。

 なんで頑張らなくちゃいけないんだろう、頑張るって意味のあることなのかな。

 

 

 推しは、「頑張る」という言葉をよくつかう。

 頑張ってるよねえ、って評されるひとだ。努力のひと、積み重ねのひと。推しを知るひとたちは、口を揃えてそう言う。それはファンだけじゃなくて、関係者の方々も。

 

 

 何かを背負うって、ものすごく重たくて、推しはその想いを軽んじるような人ではなくて。

 なんというか、責任感が強いのだろうと思う。頑張らなくちゃ、と自分に喝を入れて、その通り行動できるひと。だからきっとみんな、推しに自分の想いを託す。

 私はこの推しの「頑張る」内訳をすべて知っているわけではないけど、演出家として、プロデューサーとして、ひとりの演者として、舞台をイベントを作品を作り上げる上で、その仕事量は並々ならぬものだろう。

 放り出したくならないんだろうか。嫌になる日とか、ないんだろうか。だからと言ってはいやめますってできる世界ではないけど、推しは「頑張ります」「踏ん張ります」「一歩一歩進みます」と言って、どかんと大きな作品を作り上げ、その舞台上で「たくさんのひとに支えられました」と笑う。

 自分に厳しくて、物事が成功すればそれは他人のおかげだと言えるひとだ。

 

 

 約束するみたいに、「頑張ります」と口にする。

 しかもそれはデタラメではなくて、むしろこんな言葉じゃ追いつかないくらいの苦労や努力が伴っているのだろう。頑張る、頑張ります、頑張ろう。推しが言うたび、なんだか眩しくて、私は泣きたくなる。嬉しいとか、悔しいとか、そういうのぜんぶが混じって、どうしようもなくなる。

 推しを見ていると、「頑張る」って正しいんだ、と思う。まっすぐ走ろうとしてくれる推しが、何の衒いもなく口にする言葉。それが当たり前なんだと言うように、たったひとつの手段だというように。

 「努力した者がすべて報われるとは限らん、しかし成功した者はすべからく努力しておる」が座右の銘の推しは、その頑張りがひとつ残らず結果に繋がるとは思っていないのだろうけど。それでも、現実を受け止めながら、失敗するのも勉強になると真剣に語りながら、推しは「頑張る」と言う。

 私は、頑張って、頑張って、報われないのが怖いし、かっこ悪いこともしたくない。頑張らないとできないことなんて、手を伸ばしたくない。って思ってた、のだけど。

 自分のできないことから目を逸らさず、あの大きな瞳を爛々と燃やして努力を重ねる推しのかっこよさや、美しさや、明るさや、正しさに、救われた想いがした。頑張っても大丈夫なんだと思った。それと同時に、わたし、頑張りたかったんだなあ、と気づいた。

 勝手ではあるけれど、推しが「頑張ります」と言うたび、「頑張れ」と言われているような気持ちにもなる。それは押し付けやプレッシャーではなくて、私が足を前に出すために必要な後押しで、ふわりと心を梳く肯定だ。 

 

 

 

 

 7月にはWBB、10月にはトラベルモードが待っている。どちらも演出だ。全身全霊をかけて。真摯に全力で。推しはいつでも、頑張ることを宣言してくれる。その言葉に一点の嘘もないことを、私は、私たちは知っているし、心の底から信じている。

 推しが「頑張る」と言うたび、もう頑張っていることはわかっていても、「がんばれがんばれ」と心の中で呟いてしまう。それはもっと頑張れと負荷をかけたいわけではなくて、ただ、頑張ろうとしてくれる推しのその力が、絶えてしまいませんようにと、祈りたいのだ。

 悔しいこと、しんどいこと、苛立ちや焦燥感も、ぜんぶ、どうか推しのエネルギーに変換されますようにと願ってやまない。そして、それ以上の幸福が、頑張った先に絶対にありますように。

 

 私も推しを見習って、今日も「頑張る」と声に出す。

 手を抜きたくなっても、投げ出したくなっても、「推しも頑張ってるんだよなあ」と思えば自然と背すじが伸びる。しゃんとしなくては、と思う。それは強迫観念ではなくて、私がなりたい自分になるための魔法だ。

 よし、頑張ろう。私の人生に佐野大樹さんがいてくれてよかった。